意図はない文章の書き方。


自分の書いた文章が読みやすいと思ったことはたぶん一度もない。意図を伝えるにはもっと良い書き方があるだろうな、とレポートの度に考える。

文章を書いた経験(好き/嫌い/評価含む)

国語の授業は、文法がわからなくて苦労した。漢字や語句を覚えるのは好きだった。知りたいことが本に書かれていて、それを読むのに必要だったから、わりとがんばれた。書き取りは筆圧が強くて手が痛くなるから嫌いだった。詩や創作や作文は評価されたりされなかったりした。詩は、必ず誰かが気に入ってくれたから(自分を含めて)、ノルマ以上は書かなかったけれど、一作目は納得のいく出来になることが多かった。

自分の「意図した」書き方

綴りがあやまっていても、前後関係から補完できる機能が人にはあるらしい。そうしておそらく正しいであろう答えを見いだす。…ただ読めてしまうだけだとは思いたくない。
詩は、すべてを書くと過剰な説明になる、考えたことすべてを書かないように制御した文章のことだ。頭の中でも、目の前でもかまわない。100%があるもの。その一部のために、とがってうがった言葉を並べる。
小説は視点や世界…が限定条件になって、とてもすべてなんて書けない。

書く上での前提条件

いつからかわからないけど、どちらもわかりきることはできないものなんだな、と思って読み書きしている。
そうしたら理解できないことに目をつぶれるし、書かれていることを疑ってはいてもその人にとってのこととうなずける。まったく同じものを見たと言えない相手の、頭の中でも目の前でも、簡単にわかったと言い切るなんて失礼な気がして。推測の域を出ない答えを発言するように促すのは…論理、推論の授業ならともかく。
何度も読み返す文庫本は、何度読んでも何が好きなのかまったくわからない。
わからないから読み返すのかな、とだけ思った。もうすぐその本を買って10年になる。年に数度読むくらいになった、それでも読み返す。


自分自身の論理展開はいつも起承転転で、推論は結んでも閉じきらない。制御出来ていないか、単に制御則がないか、どちらか。嫌な書き方だな、とよく思う。どうも、書いていて話が膨らみすぎる。

意図はない文章の読み方

考えたことを文章に変換する規則は先に話した。これまでの文章が規則を破らなかった自信はないけれど、書く人間が同じなら系統誤差の範囲かもしれない。
何度だって同じことを書いてしまうし、切り捨てて書かない中に何か大事なことがあったとしても、しかたがない。それは過剰な説明か、彼あるいは彼女にはわからないはずの陰謀か、著者にはかけらも魅力がなかったか、暗黙のうちに伝えなきゃいけないメッセージだった、か。どれなんだろう。この中に答えはない可能性だって有る。
書かれていないとしても、著者と読者の共通認識の範囲で展開されればどうにか察しうるものなのか。

どこに意図があったのか(どうして意図がなければいけないの?)

あんまり頼りにならない話だな、自分で考えた方がマシだな、つまらないことを繰り返すな、と思われたなら幸い。「それ」が狙いだとしたら、の話。…ほら、この文章の意図がどこにあったというんだ。