時に事実は小説よりも奇なり。

「朱に交われば赤くなる」というけれど、人に交わるとどうでしょう。


熟れたくだものの、傷のところみたいに、そっとむけた皮のすきまからやさしいのとひどいのと、抱えたもの少しが見えてくるようになる。
本当にあるんだと思うような、半生をみんな持ってるんでしょう。
それを疑ったわけではないけど。
自分が恵まれているのか安上がりなのか、人生の平均値は誰にも出せないからきっと誰だって知らない。
知っている人の内から自分の不幸を測ったりするのかな。
かくいう私も、それをしなかったかと訊かれたらうなずくしかない。


私は話を書いてきたから、いくつかそのありえない話を書いてきたけど、ありえないと割り切ったからこそ、書くことが楽しいと思うこともあった。
それは自分が体験しえない、わかりっこないようなことだったから。
私のつくった人間だけがひどい目にあって、自分は追体験してただけだったんだ。
生身が傷つくわけじゃない、心がね。


私が考えるよりも、いつも世界は広いし、カラダが一歩先に進んだかと思えば、遠ざかるような手ごたえを覚える。
いつになったって追いつけないんなら、なまなましい現実を噛みしめてたいって思うよ。
だから、おねがい。
踏みしめた足もとに確かなものを、少し堅くてもろいものを置いといて。
乗っかった瞬間こわれるくらいでちょうどいいよ、そこにいたんだと感じたそのとき、何かがこわれて生まれ変わるんだろうから。