インソムニア。

自分の書きたいものを書いたら、こんな感じになりました。
3週間あけて読み返して驚いたんですけど、あまり手を入れませんでした。
約6250文字。長めですかね。


尊敬とか、人恋しいとか、微妙にお色気方面の描写してみたり。
悪く言えば実験。


製作期間:2010/02/01(Mon)~2010/02/28(Sun)
校正日時:2010/03/21(Sun)
よろしかったら続きからどうぞ。


インソムニア




©Natsuki.H/crosshope/2010

その人のわき腹にはひとつほくろがあった。
シャッターを切る。
「こんなのも撮るのか?」
指摘したほくろを確かめようと身体をひねったところだった。うなずく。
首をかしげる人を、「おもしろいと思って」またシャッターを切った。
「ほくろなら右足首にもある」
ズボンのすそのリボンを結ぼうとかがんだところ。
「あと左胸の下の方」
爪が緑色の指で示す。
「どっちかの肩に、消えないあざがある」
背中側らしい。指した場所は見えない。えりぐりのあいたシャツの上からとんとん叩く。
「消えないんですか?」
普通は消えますよね。
蒙古斑に似てるけどまだ残ってる。小さくはなってるみたい。おじいちゃんにもあったから遺伝じゃないの」
言いながら頭からタオルをかぶった。あふれた髪の、緑色に染まったところ。
油絵の具の汚れは、なかなか落ちないのだっけ。
「ほくろを撮るつもり?」
タオルが落ちて、顔が現れた。あたりまえだ。頭をふいていたのだし。
「いや、そんなつもりはないですけど」
好みは、ほくろよりパーツの方。「きれいだと思ったので撮りました」
髪の毛がもつれたところをひっぱりながらふうん、と返事する。
…絶対に誤解した。わかっていたけど、頬が赤いのを先に撮ってしまいたい。訂正するのは後でもいいし。

モデルが必要だったので、ついさっきモデルにした人に頼んだ。深い意味はない。
1)明後日16時に事務部提出の課題は、「人物写真を5枚」で、「(ただし自分以外を被写体とせよ)」ということだった。
2)自分は系列大学芸術学部のデッサンの授業を受けていた。
3)その授業の内容が「ペアの相手の身体の一部分のデッサン」だった。
4)ペアの相手がきれいだと思ったので、モデルを頼んでみたら引き受けてくれた。
…ただすべてがなめらかにうまくいって、撮影を自宅ですることにしただけ。
シャワーを浴びさせたのは油絵の具で汚れた髪や指が気になったせいで、「泊まって行ってください」という言葉にそれ以上の意味はない。
そもそも人を泊めたことがない。もてなし方も知らない。
湯が冷める前に入って、と客人に言われたらこちらも入るしかなくて。
ふたりの会話以外、ろくな音がしない静かな家で。携帯電話の着信履歴を確認して、浴室に入った。
湯船につかって自分の髪をすきながら、思いつくだけ、このあともてなすとして。
絡まった指のまわり、髪をよけてやると右手中指の爪が割れていた。あいまに髪が一本、はさまって痛めつけられている。
それだけ逃がしてやって、爪は思い切ってむいてしまった。そのままにしても酷くなるだけだろう。
ぺらぺらのぎざぎざを、くちびるにあてると、痛みよりくすぐったい。鏡の中、なぜか真面目な顔の自分が鎖骨あたりをなぞるとうす赤く線がついた。
さて、このままだと身体を洗うにしてもひっかきかねない、髪をかわかすにも面倒だ。どこかに爪切りは無かったか。扉を開けて、洗面台の引き出しに手をかけた、
千聖、撮るよ」
そんな間抜けな姿を?

フラッシュは光らなかったはずだ。さっき自分がそう設定した。そうでなくても脱衣所は暗くて、風呂場の淡いオレンジの灯りだけ。シルエットがうまく写ったどうか。
「…ずっとそこにいたんですか」
首を振る。動作に、髪が重そうについてまわる。
自分のカメラに収まっている彼女はイタズラを知らないような顔をしていた。
「ドライヤー探しに来ただけ。そしたらカメラ見つけた」
「ハダカは…ちょっと恥ずかしいんですけど」
上半身だけだろうが、同性同士だろうが、まあそれなりに。困ったのはわかったんだろう。
「どうせまともに写ってない。千聖こそ、『人の半裸なんか撮って楽しい』?」
カメラ越しににらまれた。
「そうですね、わりと」
素直に答えたら、『びっくりしました』と書かれた顔に出会った。カメラがその手から転げ落ちそうで、あわてて訂正した。
「こういう、肌の露出が多い相手を撮るのははじめてなので」
パジャマ代わりにと貸した7分丈のパンツに足を通したところでもういいと、呼んだのはそちらの方。
だから、長袖シャツが腹のあたりでたぐまったままの写真になった。風呂から上がったばかりのほてった肌、その赤みがきちんとフィルムに焼きついているなら。「別にほくろが撮りたいわけじゃありません。それだけじゃないです」
すでに露出どころではない。こんなふうにいろいろ誤解を訂正することになるとは思わなかった。
思い出して、爪切りを探す。奴は引き出しの2段目にちょこんとあった。
足であけっぱなしだった2段分をいっぺんに閉める。お行儀が悪かろうとかまうものか。「ドライヤーはありますけど、場所がわかりにくいんであとでかけてあげます。待っててください」
湯冷めした肩が湯気に触れると鳥肌が立った。背中に向けて、一応、言っておく。
「カメラはそこに置いておいて、小鳥さん」
お願いの形式をした命令。彼女の方が年上だろうとなんだろうと、大事なものに触れるときにはせめて断わってほしい。洗濯機の上なんかに置いた自分が悪いのはわかってるけど。
一緒に置いてあった携帯電話に触っていたら、自分がどうしたかわからない。

ときどき、「とても大事だから手放してしまった」という話を聞く。
「どうでもいいから手放した」と言うのなら自分にもわかるのに、なんでそんなややこしいことをしてくれるんだろう。
じゃあ、「夜中に電話を待っている」自分はだいたい女々しいのか。
「自分からはかけられない」。用事がないし。なんと言っていいのかわからない。

淡く緑色に染まった髪を指で梳く。自分の指はほとんどどこにもつっかえずに膝の上に落ちた。湿った感触もない。
ドライヤーを止め、今度は手を取り上げた。
爪のあいまの緑。
尻ポケットに押しこんであった携帯電話を、取り出して彼女の横に置いた。
さっき湯船の中で使った爪切りはテーブルに。加えて専用のヤスリなど。
「何? これ」
「爪みがきセット、ですかね」
このひとは、このひとの爪は、結局ぴかぴかになろうと、ぼろぼろだろうと、絵の具に染まるだろう。
「ケガさせたくないから。じっとしててください」
でもなんとなく。…そう、なんとなく。
うまい理由なんて見つからないのに、強引にしないからかろうじて「ひねり上げる」格好にならないだけで、それにしてもなんで自分は彼女にかしずくような真似をしているんだ。
格好はともかく、行為は。
「爪なんてみがいてどうするの」
言うと思った。
やっぱり正面に回って、手を持って切った方が安全だろう。
「したいから、って言ったらおかしいですよね…」
自分でも「何言ってるんだろう」、と思っています。
そういう表情がきちんとできただろうか。ベッドから降りて床に座り直し、真正面から見ると、彼女は自分がつかんでいる指先を眺めていた。
まつげが長いと頬に影ができるらしいけれど、彼女の場合は長さは足らないかもしれないがものすごく等間隔にきれいに生えそろっていて、マスカラをつけたらそのままの影が映るかもしれない。
そんなところを見ている自分が気持ち悪くはあるけれど、「被写体に妥協したくない」と言えば許されてしまいそうだ。
バカバカしい思考中も、爪切りはリズミカルに動いていたらしい。いつのまにか右手に握られているのはヤスリになっていた。
顔を見たのなど、爪を切り落とした一瞬見上げたきりなのによく覚えているものだ。
ヤスリをかけるただそれだけの行為を、自分のときよりずっと丁寧にやっていること。
自分だけはわかってしまう。表面をみがくスポンジ(特殊なコーティングがしてある)のざらざらの方を当てる前に、やんわり甘皮を押し込めた。
普段やらないようなことまでやっている事実に自分が打ちのめされているのに、身体はさっさと表面をみがきあげている。
うすい緑は人差し指に名残が見えるかどうか、になった。

「ほら、きれいになった」
今すぐこの手が絵の具にひたされますよ、だなんて多分誰も言わないはず。
明日ならもうしょうがないけれど、今すぐだったら泣くかもしれない。
彼女は手を持ち上げて、まじまじと見た。
真剣に指先を見ているから、立ち上がってハンドクリームを取ってきたことに、気づいたかどうか。
「もう一度、手を出してください。そのままじゃよくないから」
左の手の甲にすくっておいたハンドクリームを彼女の両手にうつして、爪にすりこむ。
ついでに自分が適当にみがいた中指にも。
「くすぐったい」
と彼女が笑い出したので、何かしたかと思えば、両手が恋人つなぎをしていた。
指と指の間を自分の指がこするのがくすぐったいらしくて、「じゃあ片方ずつしましょうか?」と言えば、「それでもくすぐったい」逃げようとする彼女の指が、今度は自分をくすぐっていく。
結局ふたりして笑いころげて、ベッドだからよかったけれど、彼女を下敷きにして倒れ込んでしまった。
つないだ手は彼女の顔の横にあったので、全体重をかけることは避けられたし、四つん這いになるくらいで済んだ。
倒れた衝撃で彼女は咳き込んだけれど、「大丈夫ですか」と訊けばすぐ「ケガはしてない」と答えた。
髪の毛が広がっているのも撮りたいけれど、駄目だろうな。カメラが勉強机の上で、届かない。
手をほどいて、彼女のことを起こそうとした。
のに、取れない。自分の指なのに、動かない。
彼女が、自分の手の甲に爪を立てているからだ。多少短くなったせいであまり威力はない。
「このまま起こせないか?」
このひとが何を考えているかわからないけれど、頭で意味を理解するより身体がその言葉に従おうとしてしまう。
のろのろベッドから降りて、床に足をつけて、精一杯のばしていた腕をほんの少しずつ曲げると彼女の身体がついてくる。
勢いあまって自分の胸に顔をぶつけたその人を。
手がほどけたので、ちょっとだけ抱きしめてみた。
まあ、頭を撫でた、の方が正しい。
肩をつかんで離す。
千聖の胸おっきい」とか言ってくれるので、もう一度ベッドに倒れてしまえとか思わなくもなかったが、仮にも自分のモデルだったので、我慢した。
…あの馬鹿だったら、ひっぱたいていただろう。



「小鳥さんはいつから絵を描いてるんですか?」
スケッチをする横顔を撮る。
彼女は集中してしまうと何も聴こえないタイプでも、雑音をひどく気にするタイプでもなかったので、自分はフラッシュは焚かないようにしたきりで、静かすぎるのに耐えきれなくなればときどき質問をした。
「…物心つく前から」
少し遅れて返事が返ってくるのを気にしたことはない。
スケッチブックからちっとも目線が外れないことや、自分を見ないのを、不満に思うのはとてもおかしいことだと思うし。
モデルになってくれと頼んだ後は、どこまで気を許してもらえるかにかかっていた。
「絵を描いてるのを見られるのは嫌ですか」
「別に。それが嫌だったら教室で絵を描くこともできない」
「絵を描いてるところを撮りたい」と伝えるには、そう言ってしまうのが一番簡単で、このひと相手に交渉にもならないまどろっこしい真似をしても無駄。
自分は彼女の反応次第で、間違いなくやり方を変えただろう。それでもこんなに素直なやり方をした覚えはあまりない。
「お茶飲みます?」
「…何を淹れるの」
顔を上げない。
「紅茶です。ええと、これはアールグレイだっけ…」
「銘柄気にしたことないから。砂糖だけちょうだい」
…あ、いいんだ。
同じように絵を描く人を知っている。顔を上げたら一旦鉛筆を置く。こっちを向いて話をする。
自分は、そいつであれ彼女であれ、こちらを向くのを待っていたのかもしれない。
レースのカーテンだけが日差しを遮る。そうして長い髪の毛に繊細な影を映す。
絵を描くときの姿勢を好きだと思う。カウンターキッチンにティーカップを並べて、どれがいい?と訊くと真剣に悩んでくれる表情だって、撮りたいと思う。



ベッドに横たわった彼女と話していた。自分は床に座りベッドに寄りかかって。
話はだんだんとりとめをなくしていき、最後には「たらこスバゲティがおいしかった」夕ご飯の感想を述べたきりしゃべるのをやめた。
四月半ばの夜は、まだどうしたってはだしのつま先は冷たい。
はやくふとんにもぐりこみたい。でも彼女が起きてしまうかも。
自分のベッドに入る許可を他人に求めるなんて不思議だ。結局壁側にあいた場所に足を伸ばし、そっと体重をかけて乗り込む。
やけに慎重にふとんに脚を突っ込んだところで、やっぱりおそるおそる彼女の顔をのぞきこんだ。
電気スタンドのオレンジの灯りで光っていた頬に、自分の形の影が落ちる。
昔、「世界平和のために何ができるだろう?」という問いにぼんやり思ったのは、「平和の定義を知らないけれど、何の夢を見なくても寝て起きたら明日が来ればいいんじゃないか」ということだった。
こんな夜にだって、天下泰平の世でも眠ることは案外難しいことだと知っている。
まさか名前のとおり夜目が利かないわけじゃないだろう。小鳥さん。
気難しそうに見えたり、スケッチブック以外を目に入れなかったり、手や髪が汚れても気にしないで、ご飯はちゃんと残さないでくれて、ときどき色っぽくて、ふざけて、笑うこともあるひと。
気難しい(ように見える)以外は知り合いに似ていて、でも彼女は初対面でなついてみせるほど子どもではない。
食べてしまいそうな髪の毛を避けて、スタンドの灯りを消す。
どうせならこの表情もカメラに収めたかったけど。
消した瞬間も、消した後もずっと寝顔を見ていて、眉がひそまるのに気づいてしまった。
もう一度灯せば、光についた色のせいか、満足げに見えるからちょっとおかしくなって笑ってしまった。
自分には明るすぎて変だ。横になって枕の端に頭を乗せる。
天井にまるい輪ができた。波紋のよう。
手を伸ばすと頭の上の方で、強い風の音がした。
音にだまされて身体が冷たく感じた。
肩までしっかりふとんにもぐりこんだら、彼女の長い髪の毛が本当に目と鼻の先で。
触っても何も起きるはずないのに、この束を握りしめていたらよく眠れる気がした。
抱きしめたところで絵の具のにおいはしなかった。髪に癖はほとんどない。
姿形は全然似ていない。ただ手を駄目にしてしまうのは、許せない。
自分が必死にデッサンしたのは彼女の左手。
彼女が描いてくれたのは自分の目。際がまるくて、ちょっとおかしな目、だった。
気に入って描いたと言われて、自分はびっくりしてしまって、そして彼女のことを知りたくなってしまった。
(たらこスパゲティには梅昆布茶を入れるんです。そうすると本当においしいんです)
自分に背を向けて眠る人に、朝になったら言葉にすることを考える。
(絵を描くところを見せて欲しい。そのために協力します。だから、)
ねだるやり方も、素直に言うことで。彼女の許す範囲を見計らってぎりぎりまで欲張る。
(最近寝てなかった、と言っても信じてもらえなさそう)
ふとんにふたり寝ているからか、あたたかい気もするし、眠いし。
(電話は、今日はもういいや)
目の前に、似ていて、でも違う、人がいるから。代わりだなんておこがましい。
これでじゃない、これがいい。小鳥さんだからそばにいてうれしい。
(寝てしまってもう起きられなくても、気づかなくても履歴くらい残るし)
夢ということはとりあえずなさそうだ。久しぶりに眠るから、頬をつねって確かめることはしないで、目をつむってみた。
部屋の中まで、にぎやかしい。…彼女の寝息。
昨日までの、さっきまでの静けさが嘘のよう。静かすぎて眠れなかっただなんて。

今。外は春の嵐だ。

【End】