願いと要求、エピゴーネン。

すったもんだのあげく学習机からいきなり本棚をはずされ、なんだか本棚を買いに行くことになりました。日付が変わってすぐ寝て、10時まで一度も目覚めませんでした。よく寝た! で、なにこの急展開…。えーと、電気スタンドも買わないと。
行きの車の中でぼうっと考えたこと、が今回のタイトル。


昨日のミーティングの間、「のどがかわいた」「甘いもの食べたい」と同期と言いあった。
しかし、この飲食禁止の部屋で、緊張するミーティングの最中に…とってもおいしそうなショートケーキが現れたところで、自分たちがそれをおいしく食すことは不可能に近い。おいしいとは思えない、が正しいのかな。


言葉にされる願いは、「今は」叶わないことを前提にしている。すぐに叶えられても困るようなことの方が多い。そう思った。
選択肢を誰かから提示されている場合は別で、それはもう選んだら叶うか叶わないかのどちらかしかない。注文で、要求で、通るかどうかが問題。
改善案もそう。提案で指摘だから願いとはまるで違う。


本棚があるとiMacの排熱が逃げないから、「本棚をはずしたい」と思ってはいた。けれど、本棚に乗っているすべての行き場がないかぎり、動かしたところで、とも思っていた。「いつかどうにかしたい」ことで、願いだった。
本棚を外してほしいとは言ってない。もう少し後でと言っていたはずなんだけど。
願いは叶ったというのに、不満がある。都合という条件は適わなかったから。


どうでもよいことかもしれないけど、願いは理想とする相手時間場面が存在するのが一番厄介なんだろう。しっかり想像されているほど、叶えられたときの「ささいなこと」で満足感が下がるんじゃないか。そう思った。
どんな形であれ、望む最低限を実現することを要求と呼ぶのなら、理想のハードルの高い要求=願いにはお近づきになりたくないと思うのも当然か。
自分の理想に巻き込んだ相手への罪悪感も、誰かが勝手に作り上げた理想像への嫌悪も、普通はきっとどっちも知ってる。


ささやかな願いこそ、叶えられたなら幸せになれそうなのにね。
どうして強くて頑丈で高い願いを作ってそこにこもろうとするんだろう。よじ上るのが楽しいとはそれほど思えない。願いを建設する要因が環境にあったとしても、打ち崩すときに気づけないなら人のせいにはできない。ほんの小さい砂のお城を、堅牢に築くのもありだよ、すべての願いを大きさやなんかで区別するつもりはない。



固執しないでもいてみようよ、とだけ。
風化していくものを、誰かには大したことのないものを、一度、自分の願いのすべてを見てみたいと思ったんだ。形になればわかりやすいなと思っただけなんだ。
こもったりはしなかったけど、強く抱きすぎて抱きつぶしたものもあってね。それが誰かの模倣でね、本当にくだらないことかもしれなかった。
ふっと目を遠くにやって、足下に戻す、その一瞬は大事なんだ。それで大事なものが淘汰されることがあるんだ。
本当に大事かどうかを盲目的に信じちゃいけない。ふるいにかけて選ぶんだ。


叶えようとする願いだってもういくつもない。それほど大きくはない。漠然と漂っている気はする。今も。
ささやかな何かで裏打ちされたそれは、ふるいに残り続けて来たから。