“≒”

いつもぼんやり考えていることをTwitterでついーとしたので、そのまとめ。
一応大人だから投票してきて、課題は行き詰まってて、憂さ晴らしだったかもしれない。

「自分≒相手」、「自分=相手」もしくは「自分≠相手」

上の一文。「そんなの当たり前じゃないか」と思う人がいれば、「そうか当たり前だったのか」と自分はほっとする。
そして自分が「彼女に対し何をするのか」ということは一旦置いておいてほしい。


彼女含む“客観視できない相手”を、うまく定義できないが。結果だけ見れば、
「彼らの考え方をお手本に、自分が振る舞っていた」。
それは「彼らのやり方を批判したり認めたり尊敬したりをすでに通り越して」いて、表現はおかしいかもしれないが、包含関係に思えた。
すがたかたちまで似せたりはしなかったから、彼らは「ニアリーイコール自分」。

盲目的な信頼は“ありえない”

「自分にはもう、彼/彼女を客観的に判断する能力がない」と言っている。
理由は「色眼鏡」「フィルタ」「思い込み」が邪魔をして、自分がきちんと事実を見ているのか、あやしい気がしてならないから。
だから誰か別の人に、判断をしてほしかった。
「他人の評価如何で態度やら付き合いを変えようとは思ってない。刷り込みで信じてしまっているものを、根拠を持って支持したいだけ」。
他人の評価を根拠にするわけじゃない。彼らが、他人にどれだけ評価される人間なのか、見てみたかった。


盲目的な信頼は“ありえない”。
「彼女だから信じる」わけじゃない。「自分にとって特別だから」という理由は通用しない。
一度他人相手に話したけれど、「彼女だから」助けるとか参加するとか、もうできない。
「彼女の提案がおもしろいと思うから」助ける参加する協力する努力を惜しまない、は有り。
十数年の身贔屓は、自分にリスクを取らせるほどのものじゃない。…残念なことに。


色眼鏡でも何でも、自分は「彼女ならばこれが可能だ」と判断したから、巻き込んだ。失敗するような人間を、許容する余裕のないところへ。使える人間として選んだ。
仕事のついでに、今の彼女が「何を考えてどう結論を出すのか」知ろうとした。
これは当たり前じゃないやり方、なのかな。


余計なことをもうひとつ書く。
自分は彼女に限らず、彼らをある程度大事にしているつもりでいる。
手をつないで歩くことは、もう無いんだろう。
実際にそうするにしろ、何かを指し示す比喩としても。
少なくとも自分はそれを避けたいと思ってる。イコール大事にすること、と受け取ってはもらえないだろうけど。